あちらとのdiary

内なる宇宙との対話から私を思い出し、表現する場

雑記・潜在意識と顕在意識との境

こんばんは。

今、雨が降っています。

最近は書きかけのものをどうしたものかと、積読じゃありませんけど、置きま書(おきましょ)しています。

いつかまとまるといいんですけどね、、(遠い目)

今日はひとつ気づいたことがありましたので、そのことについて。

BMメソッドでは「意図を定める感覚」という技を使います。一時流行った引き寄せの法則などでも、この迷いのない切望の宣言のようなものが引き寄せには有効だと言われていると思うのですが、この宣言をどこに届けているんだろう、とふと思いました。

宇宙に投げている方も多いと思うのです。宇宙というのは、人間の中で対応するところは潜在意識でしょうか。

潜在意識へと顕在意識から投げているのなら、潜在意識に無事届いたという感覚がわかれば、刺さったことが感じられれば、より知覚が拓く、想いが現実の世界で実現すると思ったのです。

潜在意識と顕在意識の間に何があるんでしょうか。

表皮のようなただ剥がれていくだけの角質のような、そんな存在があるんじゃないかと思いました。生まれてもすぐに消えていく存在の層が二つの間にある気がしました。代謝物といいますか。傍目にはとってつけたような、保護するという目的の、論理のような後付けの存在が。

聖書に「はじめにロゴスありき」という言葉があるとされています。

ロゴスというのは、論理、言葉、と訳されたりもしていますが。線、隔てるもの、亀裂、というような意味の言葉です。このロゴスのことがふと思い出されました。

潜在、顕在意識の境について考えているのだから、ロゴスを思うのは不思議ではないのですが。そこに切なさを見た気がしました。

小学生か中学生の時に、数学で「線って存在しないんですよ」と言われて、「えっ?!見えてるのに!?意味がわからない~」と思ったことも思い出しました。

数学に疎いので、本当かはわかりませんが、すごくインパクトのある思い出で、この事を思い出したというのは、私の中で、線と角質層は同じような、孤独な空しい存在で、この孤独の層を抜けたところに潜在意識があると思うと、私自身が角質のような存在で、どうにか潜在意識に働きかけないで、サラッと払われて死んだら、生きてた気がしないんじゃないかと思いました。

自分の体の成長を守りながら離れていく角質のように、せめて潜在意識、魂、ディスクの成長を見守りながら存在していたい、それが生きている実感になるのかと。

いつにもましてとりとめのない話ですが、ドラマを見たせいです。

『わたしを離さないで』を微妙な気持ちで数回見ました。原作が好きでした。だから、少し怖いのです、でも見ておきたいと思うのは脚本家がいいから。この人なら、やってのけてくれる、それを見たい、という思いでここまで見ていました。

で、第4回を見て角質みたいな私、と思うわけで、二十歳の頃とたいして人って変わらないものですね。そして、ドラマを見て思うんですよね、私、機能した角質であれ!と。

人はみな角質かもしれませんが、そうだとしたら、一体何の表層なのか、みんなで何を囲っているのか。人類の歴史の中の同時代の層、地層ならぬ、人層としてなのか、散っていくものなのか。

IHを知って非物質の意識が体という、行動できる、表現できる乗り物に乗っていることのパワーをとても感じるようになりました。そして、この車の高性能ぶりも。

この車は故障しても、IHで原因を突き止めることもできますし、IHを使わなくとも原因に気づける運転手でありたいと思わせる愛着のある存在にもなりました。そして、その修理も運転手の想像力が鍵であることが、感動的ですらあります。

だから、私は非物質の知覚を拡げることと、IHに興味を持ったのだろうなと思います。

人間って本当に面白い生き物です。どうやって、それを伝えていくか。

カズオイシグロのように文字で伝えられる人もいるわけです。芸術。

自動車教習、車検に来る人に伝えていけたらいいなと思います。

そう考えると自ずと勉強すべき分野が見えてきます。解剖学、、、

カーきちになりたいです。

こんな風な気持ちにできるなんて、上手な作り手のドラマってすごいですね。

うっかり、好きだった小説など挙げるというのは、これまたビリビリしますが、よかったらお読み下さい、20代までの方には響くといいなと思う本です。

 

長文にお付き合い下さり、ありがとうございます。

 

あかね