あちらとのdiary

内なる宇宙との対話から私を思い出し、表現する場

四十九日

みなさん、こんばんは。

すっかり涼しくなって、秋ですね。冬も近づいております。キュンキュン、しんしんとした季節になってまいりました。柿も沢山なっていますね。

先月、祖母が他界しました。その後、家族の夢の中に出てきて、「あかんわ」と言っていたりと、これは、なかなか閻魔大王の裁きが厳しいのか?「がんばれ、おばあちゃん!」というモードになっています。葬式で、親族の涙が少なかったことを、外から見ていた人が、職業柄なのかしらねと仰っていました。死が近くにある人たちは、死を人より目にする分、慣れているのかもしれません。突然の出来事ではなかったこともあったかもしれません。ただ、少し違ったのは、祖母の死を悲しむためというよりは、祖母の入学式であったという印象があったからかもしれません。

どうして、そうなったのか。祖母がなくなった時は、ちょうど季節の変わり目で亡くなる方が多く、斎場も混んでいて、お寺さんも予定が立て込んでいて、沢山あるお経の中で、ここではお経をあげられないかもしれない、という事態を一旦は考えることになりました。その時に、おっさまに「そこであげて頂くお経の意味は何ですか?」と聞いてみました。少し驚かれましたが、何をしているのかわからないのに、そのお経が無いのは、困る困らないって、意味がわからないですよね。私は少なくともそう思ったので、聞いてみました。そして、亡くなってすぐのお経なども、一体あれはなんだったのか?という事を聞いてみました。そして、お経の意味を聞いていると、悲しむというより励ます意味合いを強く感じてしまったのです。だから、一生懸命というか、自分が小学生だったら必死に手を合わせていただろうな、と思うようなそんな気持ちで通夜、斎場、葬儀を過ごすことになりました。おっさまからその話を聞いた時は、ああ、うちの宗派はそんな風になっているんだ、と初めて知りましたし、現代の仏教はお手軽で、すごいな、と思いました。生きている間にどっぷり浸かって、その思想を使って生きるもよし!亡くなってからでもよし!と。祖母がどんな思いで祖父亡き後、法要の度お経をあげてもらっていたのかわかりませんし、死に方についての話はしていましたが、死んだ後の話は聞いていなかったので、その事は少し残念に思いました。こんなお葬式と、供養でこれから大丈夫そうですか?

いやいや、大丈夫じゃないから、「あかん、あかん」と夢に出てきているのかもしれません、笑。でも、あかん、とよく言う関西人の祖母だったので。こちらができる事はしてあげられたのかな、どうだったのでしょう。亡くなった後のことなんて、問題じゃないよ、生きている間に何をしてあげられたのかが問題でしょ?と思う方もいるかもしれません。でも、ブルース・モーエンから学んだ道具で宇宙へ行くと、亡くなっている人にでもできることがあると思えるようになるんです。いい意味で。もちろん、生きている人に何をするか、自分が何をするか、ってことが一番大事ではありますが、それだけでもないんですよね。

四十九日は、七日おきの裁きが終わり、ついに、極楽浄土にいけるのか、最後の審判をくだされるという日です。ですので、のこされた人は「あの人をどうか極楽浄土へ!お願いします!」と法要をするようです。諸説あるといいますか、厳密な話はわかりませんが、私は簡単にはこんな話なんだな、と理解しました。だから、四十九日には、祖母への感謝を訴えれば、閻魔様も、納得してくれるかもしれませんし、私たちの心の中にも、感謝の気持ちが再生されていいことだな、と思いました。

私は祖父をなくした時が、はじめての人の死で、二十歳は越えていたのですが、葬儀含めほとんど記憶がありません。それくらいショックだったんだろうと思います。その後、友人が亡くなった時には別の意味でしてあげられなかったことへの後悔が尋常ではありませんでした。そして、今回祖母が亡くなって、こんなに死の印象が変わるなんて思ってもいませんでした。そこで、振り返ると、生きている時にどこまで関わるかってことなんだろうな、とも思いますし、死の持つ意味が私の中で変わったからだろうなとも思います。

生きているのに会えない人がいることは、諦められない思いを伴いましたが、もう体がない人に会えないことは諦められます、諦めるしかないという気持ちになります。でも、亡くなっている人に対して、諦められない時もありますよね。これは、悔いがあるから諦められないんですよね。自分に悔いが残っているから。そのことに気づいたら、その悔いが相手の体がないからもうどうにもできないものなのか、別の形や方法でその悔いを改めることはできないのか、考えて取り組んでみる余地があるように思います。そう思うと、友人がくれたものはとても大きいものでした。ありがとう、Mちゃん。

諦められないっていうのは、行動が足りていないのかもしれませんね、その人の本来動ける力と比べた時に。おっさまが、お経の意味を話して下さった中で、諦めるってことを説明する時に、後悔のない状態、とたぶん仰っていて、納得。と思いました。後悔できないくらい行動起こして、諦めて、次へ行く。岡本太郎か誰かが、諦めない、って言っていたような?言い換えれば、行動し尽くせ、ってことかもしれませんね。

話はそれていきましたが、人は死ぬ時、仏教的には、死んだ人は諦めなきゃいけないそうです。そして、サラッと諦めた人は極楽浄土へいくそうです。だから、生きている時から、極楽浄土を体感すべく、諦める人生、つまり、後悔のない選択、行動をしていかなくっちゃな、と祖母の四十九日を前に、また思い返しています。そして、本来なら?昔なら?地域によっては今もある?毎週の法要がないので、何をしていいのかわからないこともあり、できるだけ後から残念な気持ちにならなくていいように、明日を見て、今日を振り返るようにしたり、リトリーバルをして過ごしています。

まだ、祖母のところへは行っていないのですが、死ぬ前に、F27のスペシャルプレイスに来ていたので、スペシャルプレイスには来ていないかはチェックしています。四十九日があけたら、どうしているのか見に行ってみようと思っています。

ブルースによると、亡くなった後は、生きていた時に信じていた死後が待っているようなので、どんな世界を思い描くかが大事です。そして、それを周りの人に伝えて死んでいかなくてはいけませんね。神道だったらどんな感じなのか、キリスト教だったらどうなのか、沖縄だったら、山の中だったらどうなのか、いろいろ風土によってもありますし、日本思想って面白いなと思います。そして、そういうものに縛られないで、思い描く世界に行けるんです。極楽浄土ってF27みたいなところと思っていいのかな?よくわかりませんが、そういうところだといいなと思います。

みんなが極楽浄土へいけますように。

あかね