あちらとのdiary

内なる宇宙との対話から私を思い出し、表現する場

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兪穴の調整をしていて、気づいたことがありました。

過去の記憶は、その持ち主が誰でもいいのかもしれないということです。記憶の持ち主は、記憶にとって単なる場に過ぎません。

過去世と呼ばれるエネルギーも、自分の過去も、生きた人間の中に入っていれば、その中でまだデータの書き換えが起こりえます。セッションの中で扱われるのは、そういうところでもあります。

気分良く人生送りたい人は、読み物でも何でも、触れる物語は美しかったり、ハッピーエンドに限ります。自ら、不幸な物語に触れると、脳はそれを自分のことだと勘違いして、確実に、気分の良さから遠ざかります。ただ、こんな法則も自己批判の上には成立しません。

とことん不幸な物語を読みたければ読みます。気持ちが極限まで振り切れることなしに、舵をとり直すことができない頭の仕組みの人もおそらくいるので。

ただ、無自覚にそういう事をしているのであれば、もしくは、近道したいと思っているのであれば、なぜ、気分を害するものや恐怖に触れたいのか、自分についてよく観察してみることをおすすめします。

大人と子どもの違いは、自分が好きでそうしているんだ、自分が自然にそうしているんだと、主観的なだけでなく、客観的な視点も持ち合わせていること、自分に気付いていることです。どんなに、主観的に生きていても。むしろ、伸び伸びと大人が主観的に生きるには、客観的な視点を一度得ないことには、大人は子どものような幸せの中を生きることはできないのかもしれません。

大人の視点を得ると、伸び伸びと子どもの時以上に自分の力を感じながら生きられるような気がします。

そんな意味でも、兪穴での調整は、クリアリングがすごいので、選ばれることがありますが、ここで出てきたものを何かに変えて、再利用できる仕組みを私は作ろうと思いました。

これだけ、エネルギーを抜くわけなので、後片付けも大事だなと思いました。

そして、石、本当にパワフルだということも今日痛感しました。人間の体は本当に面白いです。