あちらとのdiary

内なる宇宙との対話から私を思い出し、表現する場

今日、途中までただただ楽しかったのに。STAY HOMEって、これか!って思って、インナーファミリーを思い出しなさい、五神を思い出しなさい、大天使4人?とジョシュア を思い出しなさいってことか!って。

家族、友人が外にいるのは、内にあるから。家族って形で人はいるけれど、外の世界の家族兄弟じゃなくて、自分の中のそういう存在、面、人格、を活躍させて、自分を鼓舞して生きなさい、か。とか。それらを自分の中で統合して一つで生きてみたくてか、とか。太陽が自分を知るように、自分をあえて細分化して、感情を感覚を味わいやすくして生きてるのか、とか。

あの時のウキウキは何だったんだろう。でも、逆に考え事もすぐに終わる。

林檎の木に花が咲いて、今年はなるかも。蕾が小さい時には、濃い赤で、だんだん薄い色になって白く咲く。林檎の実を逆再生してるみたい、って思った。芍薬も蕾がどんどん膨らんでいて、咲くタイミングが晴れだといいなって。本当に美しい。

 

私しかいないのか、私はいないのか問題。

振り返ってみると、ここ最近、私しかいない、的な、私がいる、というレンズで生きていた。楽だった。

私はいない、という考えは今の今まで、ここ数年湧いていなかったかもしれない、くらい久しぶりに思い出した気がした。私しかいない、的な私がいる、が苦しいと感じて、他に何か捉え方はあったかしらと思って思い出した。

私はいない、的な、私がいる、だったんだなって。

生き延びなくてはいけない私、はいないんだなって。

さようなら、わたし。

何か聖書の一節を目にした時に、カズオイシグロの私を離さないではここから来てるのか、と思った。本を読んでいたし、映画も見て、当時衝撃を受けた覚えがあるのに、話も結末も覚えていない。ただ、今、私はいない、と考えた時に楽を感じる事ができて、ほっとするなあ、と思ったら、何かあの映画を見ていた時のような感覚が来たのか、あの映画の色調が思い出された。

この人って一体何なんだろう?と思う。今までの、毎回のモヤモヤはこれだったのかと。私はいないって思うと、最近パッと浮かんでいたことの説明がつく。1が無い話や、毛穴の話。

人間って「間」の存在。間にしかいない、存在なんだって。私は間にしかいないからいない。

 

コロナで亡くなった人に会えないって、法を犯そうとする人はいないんだろうか。私は会えないなんて選択できる気がしない。その人の命を私の中に繋がなくちゃ、とか何かしら気持ちに整理をつけて、つかなくても会わないことを選べている。尊い。私はそんなだから、私はいない、って思った方がよくて、こんなことを考えさせられたのかもしれない。

コロナに関連したことをきっかけとして、何かを感じたのは今日が初めてな気がする。肉体への思いって何なんだろ。五感って。死ぬことより別れの方が怖い。離れ離れでいることより、離れ離れでいることを感じることが一番怖い。

でも、私はいない的、私がいる、は、そんな恐怖を取り除いてくれるのかもしれない。抜け落ちる毛のような私。

何か思いつく時、必ず後から古い何かがそれを表していたってことを目にする。

今週、3とフィボナッチ数列が絡んだ数の羅列の動画を見た。英語でよくわからなかったけれど、また時間ができたらどんな内容なのか、見直したい。

とある数の並びがとてもパワーを持っていて、それを見つけてしまったから、もしくは、見つけられなかったら、死ななくてはいけない、という夢をいつだったか、何度も見た。起きているときに見ていた夢かもしれない。

あの時の恐怖は、えも言われぬもので、だから、強烈に記憶している。その、数列なのか、なんなのか。


最近、畑で自然を観察しては、学びがあって、すごく楽しい。

ツバメって、めちゃくちゃ早く飛ぶんだと知った。

人は土だから、木じゃなくて土だから。五行で、土が人を表すなんて、今まで、知らなかった、笑。そんなことも知らないって、すごいな、って逆に思った。

でも、知識より先に体験があったから、とてもよかった。

私は土なんだ。素敵すぎる。