あちらとのdiary

内なる宇宙との対話から私を思い出し、表現する場

私しかいないのか、私はいないのか問題。

振り返ってみると、ここ最近、私しかいない、的な、私がいる、というレンズで生きていた。楽だった。

私はいない、という考えは今の今まで、ここ数年湧いていなかったかもしれない、くらい久しぶりに思い出した気がした。私しかいない、的な私がいる、が苦しいと感じて、他に何か捉え方はあったかしらと思って思い出した。

私はいない、的な、私がいる、だったんだなって。

生き延びなくてはいけない私、はいないんだなって。

さようなら、わたし。

何か聖書の一節を目にした時に、カズオイシグロの私を離さないではここから来てるのか、と思った。本を読んでいたし、映画も見て、当時衝撃を受けた覚えがあるのに、話も結末も覚えていない。ただ、今、私はいない、と考えた時に楽を感じる事ができて、ほっとするなあ、と思ったら、何かあの映画を見ていた時のような感覚が来たのか、あの映画の色調が思い出された。

この人って一体何なんだろう?と思う。今までの、毎回のモヤモヤはこれだったのかと。私はいないって思うと、最近パッと浮かんでいたことの説明がつく。1が無い話や、毛穴の話。

人間って「間」の存在。間にしかいない、存在なんだって。私は間にしかいないからいない。

 

コロナで亡くなった人に会えないって、法を犯そうとする人はいないんだろうか。私は会えないなんて選択できる気がしない。その人の命を私の中に繋がなくちゃ、とか何かしら気持ちに整理をつけて、つかなくても会わないことを選べている。尊い。私はそんなだから、私はいない、って思った方がよくて、こんなことを考えさせられたのかもしれない。

コロナに関連したことをきっかけとして、何かを感じたのは今日が初めてな気がする。肉体への思いって何なんだろ。五感って。死ぬことより別れの方が怖い。離れ離れでいることより、離れ離れでいることを感じることが一番怖い。

でも、私はいない的、私がいる、は、そんな恐怖を取り除いてくれるのかもしれない。抜け落ちる毛のような私。