あちらとのdiary

内なる宇宙との対話から私を思い出し、表現する場

コロナの問題は、感染症に対して日本の医療体制が全く整っていなかった事が全てで、経済云々の問題は私にはわからないけれど、直接的な死について語るなら、助かるかもしれない命をどう選択すればいいのか、という話だと思う。

コロナの検査をしたところで、感染症に対応できるベッドはほとんどない。しかも陽性であっても8割の人は肺炎にならずに済む。それがどれだけ苦しくても。

残りの2割の人は肺炎以上の症状になる。その人たちの命と、コロナが広がる前から入院している人たちの命。どっちを取るのか。

コロナの疑いがあっても、8割はどうにか生きられる。弱った人たちが入院している病院という場にコロナを持ち込まれるのは、弱った人たちにとっては高すぎるリスクで、だから、健康な人はとにかく例の密を避けて元気にいることだけ。この3つを避ければ、インフルエンザ以上に罹るリスクは低くなる。とにかく他人と接触しない事。会う人全員コロナだと考えて接しているかということ。

これまでの選挙で、与党に入れてきた人たちが、今回のことで何かを考えることをするのか。きっとまた早ければ、暮れになったら忘れているし、来年には覚えていない。それくらい、私たちは、考えない生き物にさせられる仕組みの中を生かされている。

オリンピックはやりたければ、毎回ギリシャでやればいい。

でも、どんな社会状況だろうと、どう生きるかを選んでいるのは紛れもなく自分。生存という最大の幸福があるのなら、どう時間を使うのか。時間と意識の使い方がその人。

この前夢にジョンレノンが出てきた。面白かった。

ああ、そうだよね、そんな気持ちに沢山させられた。

それ以降毎日夢を覚えている。

見たこともない乗り物に乗っている。夢らしい夢を見て、朝、ああ面白かったなあ、と思う。

夢の意味するところはわからないけれど。

2027年に死んだ私たちが全員でやり直しに2020年に来ているとしたら?今何をするのか。

消費をするようテレビで洗脳されて、消費されるために不要な物を作らされて、そこに時間と健康が奪われて。経済第一主義のこの世界が変わらなくても、まだ人は覚えている感覚もある。社会が変わる事があれば、それ以上の奇跡はないし、奇跡っていうのは、突然起こるものじゃなくて、確実に対象を直視して、明晰な思考で何かを描けた時に動き出すもの。

私は奇跡を体験できるのか。みんなそれが体験したくて、こんな時代に戻ってきたんじゃないのかな。

田舎の生活っていいもんだと、こんな時に痛感した。畑があるって、木があるって。

人には今会わないけれど、小鳥と猫とカラスと蝶々に毎日会う。昨日はこの春初めてのバッタに会った。

亡くなった人、会えない人は心の中に本当にいるなとよく思う。

最近車の中でよく歌を歌う。桜の下で、ホットケーキを食べていたら鳩が来て、カラスが来て、猫が来て、っていう歌とか。心が、頭の中が自由だと本当に生きやすい。人と集まれるようになったら、みんなでケラケラしながら、みんながキラキラしてる今の姿を覚えておこうと思います。