あちらとのdiary

内なる宇宙との対話から私を思い出し、表現する場

キム・ギドクが亡くなりました。最近は全く映画の情報も入ってきていませんでしたが、調べたら、いくつか映画を作っていたことを知りました。作家が生きていて同じ時代の空気感を味わいながら、作品をリアルタイムに体験できるって、とっても幸せだったな、と思います。

今の若者はキム・ギドクを知ってるんですかね?私は昔大好きだったけれど、10年は彼の作品は見ていないと思います。若い頃、私の身近に映画が好きな人もそんなにいなかったし、キム・ギドクの映画を何度も見てるような人は周りにいなかったように思います。ただ今回亡くなったと聞いて、キム・ギドクを私が忘れ始めているな、って気付いたら、人の気持ちってどんどん変わるんだってことがすごく実感されました。

作品は作られたら、それ自体変わらなくても、時代背景が変わったり、見られ方が変わったりします。でも、見たときの気持ちって残ってるものですよね。それって、自分の体験だから。そして、再び作品に触れるときに、自分の変化を感じたりするものですよね。ああ、今、不意に思い出しました。恵比寿の映画館で、キム・ギドクティーチインみたいなのが上映後にあった時のことを思い出しました。「監督は赤が好きなんですか?」って質問した方がいて、「え?こんな貴重な機会にあなたが知りたいのはそんなことなの??」って、笑、失礼ながら驚いた、自分の若かりし日の一場面を思い出しました。笑。結局、覚えてるのって、こんなどうでもいいことだったりします。インパクトだけ。自分の想像の枠を超えられて、良くも悪くも気分が動いたことを記憶しているわけです。面白い。

令和にも素晴らしい作品が生まれて、若者が救われることを願います。どんなに年老いた人の中にもいる若者が救われることを願います。それができるのが映画だと思ったから、私は映画が好きでした。

いくつになっても、その人の中の救われたい部分は、その年齢で存在しています。それを救い出してあげるのは、大人になった自分です。芸術に触れようとすることって、本質的には救うこと、鑑賞するって、救済。人が美しいものを求めるのは、救いを求めているんだと思います。そして、救うことが歓びなんですよね。そう考えると、欠けてるものはない、ということを教えてくれるのが、美なのかもしれません。無いところを有ると感じさせる、そのパワーが美を感じさせるのかもしれません。今、適当に打ってるから適当な考えだけれど。

そんな、救われたい自分のために、今も完全な自分で有るってことを思い出し続けることをしているかと思うと、本当に繰り返しをしているだけで、でも、それが単調でないのは、目に見える世界に生きているからだと思うと、尚更、しっかり生きてることを感じたいと思います。生きてることじゃなくて、生きてるって感じること、感じることが全てなんだろうなと、思います。

訴えられたり、いろいろあったみたいだけれど、若かった私はあなたの映画にどれだけ慰められたか。生きているって美しいな、と思わせてもらったか。あなたが映画を作ってくれた事に感謝しています。ありがとう。

ありがとうと思ったら涙が出てきました。何に対しての涙か。あ、部屋が光った。